こんにちは。宮﨑です。
今日は音楽からある学びを得ましたので、それについて書いていきたいと思います。
僕が大好きな曲、
BUMP OF CHICKEN の「天体観測」です。
「天体観測」は、BUMP OF CHICKENの最も有名な曲として、カラオケでも良く歌われる曲ですが、
この曲も深く考察してみると、非常に興味深い発見があります。
この曲は、前回の僕の書いた記事と、
非常に似た結論になっている事に気づいたんです。
→前回の記事はこちら
天体観測といえば、
フジテレビ系列で放送された同題のテレビドラマの挿入歌としても有名です。
そういう使われ方をしていたのもあって、この曲は「天体観測」をひとつの例にとった、若い男女の恋愛ソングと捉えている方が多いと思います。
確かに、実際私もかなり最近までそう思っていましたし、ボーカルの藤原さんも、解釈は人それぞれあっていいとおっしゃっています。つまり「天体観測」は男女の恋物語でも正解なのですが、
しかし、より深く考察してみると、
表面上は男女2人の話に感じますが、
実はこれは、ある3人の物語ではないか?
ということに気づきます。
「え?どういう事?どう考えても2人でしょ?」
そう思う方もいるでしょう。
もちろん、AさんBさんCさんの3人というわけではありません。この曲は、1人の話でもあるし、3人の話でもあると思うのです。
よく分からなくなってきましたね笑
つまり、究極的にはある1人の話なのですが、
(それは藤くんでもいいですし、僕でもあなたでも誰でもいいのですが、ここでは「自分」という表現にしておきます。)
色んな時間軸から見た自分、というのが1つの解釈としての答えです。
すなわち、①過去の自分、②現在の自分、③未来の自分、の3人です。
1人の話なんだけど、3人の話だというのはこういう事ですね。この結論だけ聞いた後、「天体観測」の歌詞を読んでみると、非常に多くの発見があり、すごく腑に落ちてきます。
それでは、歌詞を見ていきましょう。
--------------------------------------------
天体観測/BUMP OF CHIKEN
作詞作曲:藤原基央
午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい
二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか天体観測 ほうき星を探して
深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は
見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた
気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか
生まれたら死ぬまで ずっと探している
さあ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
今まで見つけたモノは全部覚えている
君の震える手を 握れなかった痛みも
知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ
暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ
そうして知った痛みを 未だに僕は覚えている
「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけている
背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった
宛名の無い手紙も 崩れる程 重なった
僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ
予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を
見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけている
もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ 午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている
---------------------------------------------
まず最初の部分ですけど、
なんで2分後なんだろう?って思いません?
山手線じゃないんだから!って感じですよね笑
僕は「2分後」ではなく、「二分後」である事に着目しました。
数字じゃなくて、漢字に着目するんです。
(にふんご)ではなく、(にぶんご)ということです。
つまり、この場合で言えば、2分という時間の経過によって、
自らが二分化され、2分前の自分と現在の自分に分かれた、と僕は解釈しています。
「大袈裟な荷物しょってきた」は、色んな過去のトラウマや後悔や栄光と捉えることができるかもしれませんし、この曲が発売された2000年頃にとっては、
もはや「ベルトに結んだラジオ」は過去の象徴かもしれません。
こういう風に考えると、
なんかワクワクしてきますよね。
「君の震えている手」は、過去の自分、あるいは現在の自分が、見えない未来に震えている様子でしょう。
ここの「君」は一緒に天体観測(自分探し、将来の自分探し)を一緒にしている友人と考える事も出来ますね。
とにかく、何か見えないものに怯えている、
という事です。
そして1番のサビの部分。
まず最初に注目するのは、最後の部分ですね。
「イマ」というほうき星、君と二人追いかけていた。
(イマ)という言葉が、カッコ書きにされているのが気になります。
カタカナにされているのも、特にそこを強調したい意思の表れでしょう。
イマというほうき星、ですから、
イマ=ほうき星 ということになります。
つまり、ほうき星を探す天体観測は、
本当は、イマの自分探しであるということです。
何か恐怖と戦いながら、希望や本当の自分を探そうとする行為を、藤くんは天体観測に例えているわけです。
「追いかけていた」という歌詞もポイントですよね。
二人追いかけていたのは過去の話で、
それは少しづつ変化していく事が読み取れます。
それでは、2番を見ていきましょう。
ここからは少し話が変わります。
ここは比較的理解しやすい部分だと思います。
幸せの定義とか哀しみの置き場とかを、
気がつけばいつだって、探している。
つまりこれも一種のここでいう、
「天体観測」だって事ですよね。
皆必死に何かを探していると。
「今まで見つけたモノは全部~」は、
今までの良かった事、苦しかった事、
様々な経験もしているし、後悔もある、
といった所でしょうか。
そして、2回目のサビです。
ここは、何か知らないモノや、
未来にあるかもしれない希望を追い続ける、
そんな自分の思いが出ている歌詞ですよね。
ただ、このサビの最後の部分。
ある変化がある事に気づきます。
1番では、「イマ」というほうき星を、
二人で追いかけていたのに、
2番では、一人で追いかけています。
この変化はなんでしょうか?
僕は、自分が過去を別の物(者)としてではなく、
自分自身として受け入れた、
という事だと思っています。
この2番では、ある程度「過去」
にフォーカスして詩が書かれています。
しかし、今「も」一人追いかけているのです。
今「も」、という所に注目です。
つまり天体観測(簡単に言うと自分探し)をしている事自体は以前と同じ。
ただ、過去を後悔したりするのではなく、
受け入れて精一杯「イマ」を生きようとする心情の変化だと思います。
この後も「過去」について描かれます。
「背が伸びるにつれて~」の部分ですが、
ここの部分いいですよね。
成長して、思春期を経て大人になっていく中で、
色んなしがらみとかを経験して、
この世の中に言いようのない閉塞感を覚える。
まさに、尾崎豊の世界ですよね。笑
「15の夜」みたいな、そんな独特の心情です。
誰もが経験するところではないでしょうか。
その後の部分も過去の後悔というか、
こんな事もあったなと回想する部分です。
そしてラストのサビに突入します。
過去には色々あったけれども、
知った痛み全てが、「僕を支えている」んです。
忘れるのでもなく、引きずるのでもなく、
それを受け入れようという事ですよね。
ここも繰り返し主張されている部分です。
「現在(イマ)」という視点が、過去への後悔や未来への不安によって
抜け落ちてしまう事があったけれども、
やっぱり原点に立ち返って「天体観測」をする。
→今を精一杯生きることに立ち返る。
「イマ」を全力で生きる。
結局僕らにはこれしかないのだと再確認していますね。
だから、「一人」で「イマ」を探しています。
そして、最後の部分。
自分は、「イマ」を生きるしかないと確認した上で、
今一度「天体観測」をしようとするわけです。
ただし、今度は「君」(過去の自分)がいません。
過去は振り返らない事にしたからですね。
ここで、この曲ラストにして最大の謎が出てきます。
本当に最後の部分。
《「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている》
ええええええええっ?
そこは一人じゃないの?
ってなったのは僕だけでしょうか。笑
ちなみにこの「天体観測」を仮に恋の歌だとしたとしても、ここで「二人」になるのはかなり不自然で違和感があります。
この部分がこの曲最大の謎であり、
それぞれの解釈があっていい部分だと思います。
「この部分に関しては、皆さんの解釈次第です!」
と言ってしまえばそれで終わりですが、
それではあんまりなので、
僕はどう解釈したかを書きます。
「過去の自分」という事はありえないと思いますね。
散々「過去」を受け入れる描写がありますし、
直前の締めは「一人」で追いかけていますから、ここでまた「過去の自分」と天体観測をするとは考えづらい。
当然、二人のうち一人は、現在の自分という事になります。この曲では終始現在の自分目線で歌詞が書かれていますので、ここは間違いないです。
すると、残りの一人は「過去の自分」でないとすると、
一体全体誰なのか。
繰り返しになりますが、ここはそれぞれの解釈で良いという事を前提にした上で、
僕は、「未来の自分」だと、そう考えています。
正直、ここは二人ってなってますけど、
難しく考えずに現在の自分が「イマ」を追いかけている。それでいいとは思うのですが、
「二人」となっている部分にあえて答えを出すとすると、
僕は「未来の自分」であると考えますね。
ここまでの経緯で「過去」は受け入れました。
過去は過ぎ去ったことであり、帰ることは出来ない。
良い意味で「考えない」ということですよね。
例)反省はするが、後悔はしない。
前回の記事でも書いたわけですが、
過去を振り返る事に意味はないのと同時に、
未来を恐れることに意味はありません。
→前回の記事はこちら
コントロールできるのは現在だけだからです。
先の事なんて、誰にも分からないですからね。
つまり、「未来の自分」なんていうものが、
先にある気がするけれど、
そんなものはない(分からない)んです。
だから、「イマ」を探している「現在の自分」のすぐ横に、「未来の自分」がいるわけです。
何か自分でコントロールできる「未来」というものが、
あるように感じるのは気のせいで、実際はない。
「あなたには未来がない」とかそういう意味ではなくて、何か希望のようなものがあるのだとしたら、
それは得体の知れない「未来の自分」にあるのではなく、「現在の自分」にあるという事。
(「現在の自分」は「未来の自分)を包含している!)
あるいは「未来の自分」というものこそ、
それはつまり「現在の自分」であるという事だと解釈しました。(「現在の自分」=「未来の自分」)
①「未来の自分」とは、「現在の自分」の一部。
(すぐ隣にいるor一緒にいるので、「二人」)
②「未来の自分」すら、それ即ち「現在の自分」。
(「現在」と「未来」の二面性を持つ「自分」は、「二人分」であるという事。)
という事が考えられます。
これが最後の「二人」の僕なりの解釈です。
まあ、つまり結局は「一人」って事なんですけどね。
「自分」を、「過去の自分」「未来の自分」とか、
色々分けてはみるけれど、
過去は変えられないし、未来は分からない。
3人だけど、結局は「現在の自分」しかない。
精一杯「イマ」を生きるしか、
自分にできる事はないって事です。
全力で「イマ」を生きるのが、
人生を最高にする唯一の方法だと、
藤くんは教えてくれているのだと思いますね。
ちなみに、
→前回の記事はこちら
さあ、これで前回の記事と同じ結論に達しました。
今を、現在を、精一杯頑張りましょう!
僕も楽しい人生を過ごすために頑張ります!
あなたも是非一緒に頑張りましょう!
それでは、今回はこの辺で。
また近いうちに更新したいと思います。
宮﨑
午前二時 フミキリに 望遠鏡を担いでった
ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい
二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た
始めようか天体観測 ほうき星を探して
深い闇に飲まれないように 精一杯だった
君の震える手を 握ろうとした あの日は
見えないモノを見ようとして 望遠鏡を覗き込んだ
静寂を切り裂いて いくつも声が生まれたよ
明日が僕らを呼んだって 返事もろくにしなかった
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけていた
気が付けばいつだって ひたすら何か探している
幸せの定義とか 哀しみの置き場とか
生まれたら死ぬまで ずっと探している
さあ 始めようか 天体観測 ほうき星を探して
今まで見つけたモノは全部覚えている
君の震える手を 握れなかった痛みも
知らないモノを知ろうとして 望遠鏡を覗き込んだ
暗闇を照らす様な 微かな光 探したよ
そうして知った痛みを 未だに僕は覚えている
「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけている
背が伸びるにつれて 伝えたい事も増えてった
宛名の無い手紙も 崩れる程 重なった
僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ
ただひとつ 今も思い出すよ
予報外れの雨に打たれて 泣き出しそうな
君の震える手を 握れなかった あの日を
見えているモノを 見落として 望遠鏡をまた担いで
静寂と暗闇の帰り道を 駆け抜けた
そうして知った痛みが 未だに僕を支えている
「イマ」という ほうき星 今も一人追いかけている
もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで
前と同じ 午前二時 フミキリまで駆けてくよ
始めようか 天体観測 二分後に君が来なくとも
「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている
---------------------------------------------
まず最初の部分ですけど、
なんで2分後なんだろう?って思いません?
山手線じゃないんだから!って感じですよね笑
僕は「2分後」ではなく、「二分後」である事に着目しました。
数字じゃなくて、漢字に着目するんです。
(にふんご)ではなく、(にぶんご)ということです。
つまり、この場合で言えば、2分という時間の経過によって、
自らが二分化され、2分前の自分と現在の自分に分かれた、と僕は解釈しています。
「大袈裟な荷物しょってきた」は、色んな過去のトラウマや後悔や栄光と捉えることができるかもしれませんし、この曲が発売された2000年頃にとっては、
もはや「ベルトに結んだラジオ」は過去の象徴かもしれません。
こういう風に考えると、
なんかワクワクしてきますよね。
「君の震えている手」は、過去の自分、あるいは現在の自分が、見えない未来に震えている様子でしょう。
ここの「君」は一緒に天体観測(自分探し、将来の自分探し)を一緒にしている友人と考える事も出来ますね。
とにかく、何か見えないものに怯えている、
という事です。
そして1番のサビの部分。
まず最初に注目するのは、最後の部分ですね。
「イマ」というほうき星、君と二人追いかけていた。
(イマ)という言葉が、カッコ書きにされているのが気になります。
カタカナにされているのも、特にそこを強調したい意思の表れでしょう。
イマというほうき星、ですから、
イマ=ほうき星 ということになります。
つまり、ほうき星を探す天体観測は、
本当は、イマの自分探しであるということです。
何か恐怖と戦いながら、希望や本当の自分を探そうとする行為を、藤くんは天体観測に例えているわけです。
「追いかけていた」という歌詞もポイントですよね。
二人追いかけていたのは過去の話で、
それは少しづつ変化していく事が読み取れます。
それでは、2番を見ていきましょう。
ここからは少し話が変わります。
ここは比較的理解しやすい部分だと思います。
幸せの定義とか哀しみの置き場とかを、
気がつけばいつだって、探している。
つまりこれも一種のここでいう、
「天体観測」だって事ですよね。
皆必死に何かを探していると。
「今まで見つけたモノは全部~」は、
今までの良かった事、苦しかった事、
様々な経験もしているし、後悔もある、
といった所でしょうか。
そして、2回目のサビです。
ここは、何か知らないモノや、
未来にあるかもしれない希望を追い続ける、
そんな自分の思いが出ている歌詞ですよね。
ただ、このサビの最後の部分。
ある変化がある事に気づきます。
1番では、「イマ」というほうき星を、
二人で追いかけていたのに、
2番では、一人で追いかけています。
この変化はなんでしょうか?
僕は、自分が過去を別の物(者)としてではなく、
自分自身として受け入れた、
という事だと思っています。
この2番では、ある程度「過去」
にフォーカスして詩が書かれています。
しかし、今「も」一人追いかけているのです。
今「も」、という所に注目です。
つまり天体観測(簡単に言うと自分探し)をしている事自体は以前と同じ。
ただ、過去を後悔したりするのではなく、
受け入れて精一杯「イマ」を生きようとする心情の変化だと思います。
この後も「過去」について描かれます。
「背が伸びるにつれて~」の部分ですが、
ここの部分いいですよね。
成長して、思春期を経て大人になっていく中で、
色んなしがらみとかを経験して、
この世の中に言いようのない閉塞感を覚える。
まさに、尾崎豊の世界ですよね。笑
「15の夜」みたいな、そんな独特の心情です。
誰もが経験するところではないでしょうか。
その後の部分も過去の後悔というか、
こんな事もあったなと回想する部分です。
そしてラストのサビに突入します。
過去には色々あったけれども、
知った痛み全てが、「僕を支えている」んです。
忘れるのでもなく、引きずるのでもなく、
それを受け入れようという事ですよね。
ここも繰り返し主張されている部分です。
「現在(イマ)」という視点が、過去への後悔や未来への不安によって
抜け落ちてしまう事があったけれども、
やっぱり原点に立ち返って「天体観測」をする。
→今を精一杯生きることに立ち返る。
「イマ」を全力で生きる。
結局僕らにはこれしかないのだと再確認していますね。
だから、「一人」で「イマ」を探しています。
そして、最後の部分。
自分は、「イマ」を生きるしかないと確認した上で、
今一度「天体観測」をしようとするわけです。
ただし、今度は「君」(過去の自分)がいません。
過去は振り返らない事にしたからですね。
ここで、この曲ラストにして最大の謎が出てきます。
本当に最後の部分。
《「イマ」という ほうき星 君と二人追いかけている》
ええええええええっ?
そこは一人じゃないの?
ってなったのは僕だけでしょうか。笑
ちなみにこの「天体観測」を仮に恋の歌だとしたとしても、ここで「二人」になるのはかなり不自然で違和感があります。
この部分がこの曲最大の謎であり、
それぞれの解釈があっていい部分だと思います。
「この部分に関しては、皆さんの解釈次第です!」
と言ってしまえばそれで終わりですが、
それではあんまりなので、
僕はどう解釈したかを書きます。
「過去の自分」という事はありえないと思いますね。
散々「過去」を受け入れる描写がありますし、
直前の締めは「一人」で追いかけていますから、ここでまた「過去の自分」と天体観測をするとは考えづらい。
当然、二人のうち一人は、現在の自分という事になります。この曲では終始現在の自分目線で歌詞が書かれていますので、ここは間違いないです。
すると、残りの一人は「過去の自分」でないとすると、
一体全体誰なのか。
繰り返しになりますが、ここはそれぞれの解釈で良いという事を前提にした上で、
僕は、「未来の自分」だと、そう考えています。
正直、ここは二人ってなってますけど、
難しく考えずに現在の自分が「イマ」を追いかけている。それでいいとは思うのですが、
「二人」となっている部分にあえて答えを出すとすると、
僕は「未来の自分」であると考えますね。
ここまでの経緯で「過去」は受け入れました。
過去は過ぎ去ったことであり、帰ることは出来ない。
良い意味で「考えない」ということですよね。
例)反省はするが、後悔はしない。
前回の記事でも書いたわけですが、
過去を振り返る事に意味はないのと同時に、
未来を恐れることに意味はありません。
→前回の記事はこちら
コントロールできるのは現在だけだからです。
先の事なんて、誰にも分からないですからね。
つまり、「未来の自分」なんていうものが、
先にある気がするけれど、
そんなものはない(分からない)んです。
だから、「イマ」を探している「現在の自分」のすぐ横に、「未来の自分」がいるわけです。
何か自分でコントロールできる「未来」というものが、
あるように感じるのは気のせいで、実際はない。
「あなたには未来がない」とかそういう意味ではなくて、何か希望のようなものがあるのだとしたら、
それは得体の知れない「未来の自分」にあるのではなく、「現在の自分」にあるという事。
(「現在の自分」は「未来の自分)を包含している!)
あるいは「未来の自分」というものこそ、
それはつまり「現在の自分」であるという事だと解釈しました。(「現在の自分」=「未来の自分」)
①「未来の自分」とは、「現在の自分」の一部。
(すぐ隣にいるor一緒にいるので、「二人」)
②「未来の自分」すら、それ即ち「現在の自分」。
(「現在」と「未来」の二面性を持つ「自分」は、「二人分」であるという事。)
という事が考えられます。
これが最後の「二人」の僕なりの解釈です。
まあ、つまり結局は「一人」って事なんですけどね。
「自分」を、「過去の自分」「未来の自分」とか、
色々分けてはみるけれど、
過去は変えられないし、未来は分からない。
3人だけど、結局は「現在の自分」しかない。
精一杯「イマ」を生きるしか、
自分にできる事はないって事です。
全力で「イマ」を生きるのが、
人生を最高にする唯一の方法だと、
藤くんは教えてくれているのだと思いますね。
ちなみに、
→前回の記事はこちら
さあ、これで前回の記事と同じ結論に達しました。
今を、現在を、精一杯頑張りましょう!
僕も楽しい人生を過ごすために頑張ります!
あなたも是非一緒に頑張りましょう!
それでは、今回はこの辺で。
また近いうちに更新したいと思います。
宮﨑
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